〜ファイナルメッセージ〜

MAX10周年企画
座談会

MAX

2010年12月31日(土)
埼玉県・某所


司会進行(kaiser)


それではMAXサイト10周年記念企画、年忘れ座談会を始めたいと思います。とりあえずMAXのサイト運営前から時系列に沿って振り返っていきます。MAX・波多野は、まだ会場に到着してないので相澤・朝吹の二人で始めて行きます。宜しくお願い致します。



【ストU時代】


まず、1993年9月に餓狼伝説SPECIALが発売されましたが、当時からプレイしていましたか?

MAX・朝吹
その頃はスーパーストUしかやってなかった。

MAX・相澤
朝吹が言った様に、元々ストUシリーズだけだったね。ダッシュの頃くらいから本格的に始めて、自分・朝吹・波多野はターボの頃から大阪にストU遠征したりしてたな。・・・確か千日前プラボで対戦したのを覚えてる。当時自分がザンギエフ、朝吹がケン、波多野が、、、なんだったっけ!?

MAX・朝吹
あいつは、、、ベガとかブランカとかじゃなかった?

MAX・相澤
そんな感じだな。で、今みたいに高速使って東京から大阪行った訳ではなくて、下道で静岡〜京都〜大阪という感じで、今より時間があったから何日か掛けて行き当たりばったりのゲーセンで、その土地の連中と対戦するのがメインの活動だったね。

MAX・朝吹
そうそう、国道沿いのドライブインみたいな場所巡りで、ゆにろーずとかさ。

MAX・相澤
そこでその地元の兵と戦うのが面白かった。今みたいにネットとか無い頃なんで、全く情報が無かったのも良かった時代だな。それが今のMAXのルーツだな。


以前聞いた所によると、秋葉原のシントクSEGAで相当やっていたと言う事ですが...。

MAX・相澤
・・・?

MAX・朝吹
ああ、シントクか。もうガロスペに話は飛ぶのね?


いやいや、基本的にガロスペの話だから...。



【餓狼伝説SPECIAL全盛期】

MAX・朝吹
実はガロスペに入ったのは、神田なんだよね。

MAX・相澤
そうそう。神田のビッキーズ。ゲーメストで大会告知が出てたんで、俺と朝吹はスーパーストUに参加してたんだけど、その時スーパーストUと同時開催で餓狼SP大会もやってたのが大きかった。


確か、スーパーストUと餓狼伝説SPECIALは、発売時期もほぼ同じですね。

MAX・相澤
確かその夏に幕張のゲームショーで、両タイトル発表されてたのを覚えてる。

MAX・朝吹
あー、やってたな。大きなステージで。ガロスペの大会やってて決勝がキムvsキムだったな(笑)

MAX・相澤
で、ビッキーズに話は戻すけど、その頃スーパーストUにある種の限界を感じていたので、ストUには無い表現力というか、ひとつのコマンドでパンチやキックを乱舞する鳳凰脚みたいな演出や当て身投げなど、SNKの独特な雰囲気に凄くインパクト受けて、スーパーストUの大会に参加しながら、どんどん餓狼SPに引き込まれていった。

MAX・朝吹
で、なんか次の日には二人とも餓狼伝説SPECIAL始めてたな。

MAX・相澤
うん。今までストUシリーズを何千試合と行ってきたのに、あの時の俺らの価値観として葛藤は無く、ごく自然な流れだったね。

MAX・朝吹
ゼッタイ面白いと思ってた。


なるほど、それだけ惹きつけられるものを感じた訳ですね。

MAX・朝吹
そこからは千葉県の主戦場になるゲーセンで毎日対戦して、週末は身近な遠征として秋葉原のシントクに行ってた感じ。

MAX・相澤
それで秋葉原から主戦場の船橋に戻ろうとした時、途中の駅から自分らの目の前に乗車してきたのがkaiserという訳で、高校を卒業して(元々MAX3名とkaiserは同じ高校の同級生)数年経っての奇跡的な遭遇だけに驚いたよ。しかも久々に話してみると、お互いに餓狼SPやってる訳だから話は早かったね。なにか不思議なものを感じたよ。


うん。しかもその1ヵ月後、仕事帰りに立ち寄ったゲーセンで、またこのメンバーと会う所がね(笑)

MAX・朝吹
船橋you&you!

MAX・相澤
それが主戦場だよ。

MAX・朝吹
あの時は毎日行ってたからな。

MAX・相澤
ああ。1年が365日あるなら、365日毎日だったな。

MAX・朝吹
いや、俺は411日連続で通った!波多野の家に泊まった時、時計が24時を回ろうとした時も「おいっ!起きろ!!今からゲーセン行って俺と対戦しろ!」とか“毎日対戦”に拘った(笑)

MAX・相澤
熱かったね!そんな感じで毎日対戦してたんで、船橋で同じく毎日乱入してくるテリー使いが居て、朝吹と「あいつもおかしい」とか言いながら、そのテリー使いと半年くらい一言も直接会話しないで、毎日毎日対戦を通じ会話していた。それがMAX・松尾。改めて振り返ってみると、あの頃は非公開メンバーとして女性プレイヤーも2名(ビリー・ダック)居たし、kaiser含め一番メンバーが多かったね。

MAX・朝吹
ああ、そうだね。


ホント毎日やってました(笑)

MAX・相澤
やらない日は無かった。


司会進行を続けます。MAXサイトを始める前から各地へ遠征している訳ですが、1994年には仙台と福島に遠征してますね。

MAX・相澤
仙台駅前のアーケード街で対戦したのを覚えてる。当時は全盛期の真っ只中だったので、1店舗に数組の通信台が設置されていたね。波多野が一番仙台を堪能していた。その帰りに福島県にも立ち寄ったんだけど、そこのゲーセンが強烈で、コンパネが横並びに1P2Pのタイプなんだけど、何故か1P側にはボタンが3つしか付いてなくてDボタンが見当たらず、よく確認してみると遥か右端にある2P側のAボタンがDボタン扱いになっていた。あれじゃ鳳凰脚出せないだろうって(笑)

MAX・朝吹
あははは、ありゃないよな!


その次に、1995年1月に大阪に遠征しました。

MAX・相澤
NEOGEOランドか...。懐かしいね。その後、兵庫にも足を伸ばしたんだけど、その2週間後に大震災があったり、後に色々な話がシンクロしていて、それぞれの歴史を感じます。

MAX・朝吹
あれっ!?その前の夏にも大阪行ったはずだけど。

MAX・相澤
94年の8月に東京から寝台列車に乗って、北九州入りして、そこから広島〜大阪と新幹線で移動したやつね。

MAX・朝吹
そん時も福岡で、通信対戦台ではない横並びの台で、地元のテリー使いが細々とプレイしている横から「ちょっと対戦入っていい?」とか言って、乱入したな(笑)


アメリカ方式?

MAX・相澤
「俺ら東京から来てるから良いでしょ!」とか言って、意味分らんよな(笑)

MAX・朝吹
なにかにつけて「俺たち東京から来てっから」とか言っちゃって(笑) そしたら広島でソース貰ったんだよ。

MAX・相澤
で、そのノリで広島でも対戦した後、駅前でお好み焼き食べて、お好み焼き屋の大将にも「東京から来た」と言ったら、店の大将が「オタフクソース持って帰りんさい。」と、お土産もらって「広島は良い所だぁ」と感動したのを覚えてる(笑)

MAX・朝吹
「東京から来た」と言えば良いと思ってる(笑) まぁうち等は、遠征遠征と言ってるけど、結局行った場所でその土地の美味いモノ食べたりしながら、色々と楽しんでいたな。

MAX・相澤
旅だからね。旅そのものを楽しんでいたからね。

MAX・朝吹
そうなんだよ。

MAX・相澤
後は新大阪から江坂に入り、NEOGEOランドに行ったんだけど、そこでは丁度そのあと人気の出る、初代KOF(94)のロケテストが行われていたな。それは全くやる気無かったけど、それより餓狼SPの通信台があったので、すぐにそれに飛びついたよ。すると地元のプレイヤーが「よそ者が来た」という感じで、ガンガン潰しに来たけど、それが遠征の醍醐味だとメチャメチャ面白かった。

MAX・朝吹
そうだなぁ。


できれば遠征とは、そうありたいですね。



【バーチャファイター2〜3時代】


それでは次の話題に移ります。餓狼3が発売され、MAXのメンバーは全て「バーチャファイター2(以下VF)」に移行しましたが、その理由は?

MAX・相澤
餓狼SPをやってた時は、早く餓狼3が出て欲しいと思っていた。餓狼SP特有の不公平さが改善され、もっと対戦バランスの優れたものが出ると想像していたから。でも実際に発売された餓狼3は、MAXの求めていたモノではなかった。もうその頃になると首都圏を探し回っても餓狼SPの通信対戦台は無くなってしまい、今みたいにネット情報もないし、ひとつの岐路に立たされた。そこで時の社会現象にまで上り詰めていたVF2に移行する事になって...。以前スーパーストUから餓狼SPに移った時とは心境は違ったけどね。

MAX・朝吹
そこでバーチャファイターが出てくるのか。あの時はもうガロスペの対戦台が無かったからな。


VFでの経験は、今のMAXの活動に繋がる大きな影響を与えたのでは?

MAX・朝吹
それは、あるな!

MAX・相澤
もの凄く大きな経験になった。今だから言うけど、自分とkaiserは当時のゲーメスト企画「台湾ツアー」に日本代表として参加したり、そこでキャサ夫氏らとの出会いは“鉄人”という強烈な存在感を学ぶ事ができたね。その後、日本に戻ってきた後も交流はあって、町田のアテナ杯に参加したり、会員制イベントにも朝吹と“ウルフの鉄人”ブンブン丸氏と組んで大会に参加したり、外向き(ギャラリーを意識した)対戦の基礎が出来上がったのは間違いないと思う。

MAX・朝吹
VF1の頃は「なんだ、このダンボール格闘」と思ったけど、VF2はインパクトあったね。飛び道具の概念が無いのは新鮮だった。

MAX・相澤
うん。自分はウルフ、朝吹はシュンディ、波多野はジェフリー、kaiserは影。
3Dになった事で、表現性が格段に向上したね。2Dより数段、個性が出し易くなった。ウルフだったら、カウンター・ニーで浮かせてPキャン→Pキャン→Pキャン→ロードロップキックみたいなマニアックなコンボばかり探していた。


やはりVFの存在は、ゲーム内のキャラの強さ以上に、それを操るプレイヤーの存在感が際立った事が大きかったですね。

MAX・朝吹
そうだな。それまでの格闘ゲームはプレイヤー云々よりも“ダイヤグラム”の様なものが主流だったからね。VFにもキャラ相性はあったけど、それはプレイヤーの技術でカバーできたからね。


それが格闘ゲーム全体的な魅せ方の変化に繋がっていき、個性的なプレイヤーが、より際立っていくと思うのだけど、そこで鉄人という存在がありました。

MAX・相澤
暫くはVF2〜VF3までどっぷりとハマって、新宿のSPOT21なんかも良く行ったりしたけど、VF3出始めの頃までが楽しかったな。自分vsブンブン丸、朝吹vsK.K.雪風なんかは良い思い出だね。

MAX・朝吹
あの頃はね...。その後の鉄人は色々大変だったと思う。

MAX・相澤
VF2の頃の鉄人という存在は、本当に技術や魅せ方も超一流のエンターティナーだった。VF3辺りになると、独特なシステム的なモノや鉄人という地位が逆にネックになってしまい、戦い方も本人の意向と関係なく、いつしか結果を求められてしまい、プレイヤーとしての理想と現実のギャップが辛かったんじゃないかと思うよ。

MAX・朝吹
アテナの“ヒーコー杯”は楽しかったな。

MAX・相澤
ああ、楽しかった。・・・VFのコーナーでは無いので、あまり多くを語り過ぎても良くないけど、結局オンリーワンの重要性を凄く感じたのがVFシリーズであり、それが確実に餓狼SPでの意識に繋がっているよ。


結局、プレイヤー自体が注目されるというモデルケースが無かった時代に、VFの鉄人達はひとつの時代を作ったので、それはいろいろな意味で参考になったと言う訳ですね。

MAX・相澤
凄く参考になった。鉄人たちには本当に感謝してます。

MAX・朝吹
そうだね。



【ボンクラス参戦へ】


VFでゲーム内での魅せ方を学び、そしてMAXが表向きに活動する直前まで参加していた「ボンクラス」に繋がる訳ですね。

(ボンクラス:田園調布の音楽スタジオを使用し餓狼SPを楽しむ団体)

MAX・朝吹
VFも先が見え始めて、VF3もtbになって...。

MAX・相澤
VFも3tbになる頃は、情熱が無くなってしまった。そこで自分の中で“最高の格闘ゲーム”とは?と、自問自答してみると、餓狼SPしか出てこないんだよね(笑) いつだったか、VF3tbを諦めた真冬のある日、kaiserの家でMAX3名が居る中で、自分が「無謀だと判ってるけど、今から餓狼SPの対戦台を探し出し、乱入されるシーンを夢見たい。」と言ったのを今でも覚えている。・・・あの時の窓の外は雪だったなぁ。

MAX・朝吹
そんな事あったね。


ただし状況は厳しく、世の中のゲーセンからガロスペというものは完全に無くなってしまい、やりたくても状況が整わなかった...。

MAX・相澤
そこで当時ゲーム会社に勤めていた自分が、ようやくインターネットと言うものが世の中に普及し始めて、いち早く会社の先輩が始めていたISDN回線のネットで餓狼SP対戦台を探してみたら、運よく新宿MOReが出てきたので、すぐに確認しに行ったよ。

MAX・朝吹
そうだな、MAXはそこからだな!

MAX・相澤
で、自分・朝吹・波多野・kaiserの4人で週末毎に新宿行ってたよな。そこでTEXさんと対戦できた時は衝撃的だったよ。もう完全に狼は絶滅したと思っていたからね。ニホンオオカミの心境だよ。

MAX・朝吹
あの裏ビデオ(笑)も衝撃的だった!!

MAX・相澤
更にある伝(1998年:インターネットが一般的に普及してない次代。新声社が出版した雑誌にMAXが、餓狼SP対戦プレイヤー募集!と告知を出し、それを見たプレイヤーが新宿MOReに集まって来たアナログ方式)を使って、当時若かったGARO坊やAKIRAもコンタクトを取って来たのも懐かしいね。そしてさっき名前が出てきた「ボンクラス」もそこでMAXに接触を取ってきた流れだな。

MAX・朝吹
あの二人かぁ。ボンクラスに誘った事で目覚めてしまったな(笑)

MAX・相澤
ボンクラス側はGARO坊とAKIRAをMAX側に入れたかったみたいだけど、そこはこちらの決め事もあったのでボンクラスサイドに入団してもらったけど、スイッチの入り方は各プレイヤーの感性なので...。

MAX・朝吹
これが、若さか...(クワトロ・バジーナ風)

MAX・相澤
ただ、あの時点でネットが普及してない状況で、いち早くMAXに接触を試みたGARO坊とAKIRAの触覚は本物だよ。小林君なんか俺の自宅に「対戦したいです。」って汚い字で手紙が届いたからね(笑) 二人ともプレイヤーとしての資質も高いし、あれから10年以上経った現在の活躍ぶりは、既に当時から想定できたね。今後も安定した活躍が見込まれると思う。GARO坊に関しては、もう少し場の空気を読める様になると、もっと成長できると思うんだよなぁ。

MAX・朝吹
そういやZERO坊は、何でGARO坊になったんだっけ?

MAX・相澤
・・・確か本人に聞いた感じだと、以前ストZEROをプレイしていたから、ZERO坊と名乗ってたのかな。その当時、対戦していた親友と離ればなれになる流れになって、いつかどこかのゲーセンで再会する時「青い帽子を被ってるのが目印だから」と言う意味で、ゲーセンに来る時は青い帽子をトレードマークにしてるとか何とか...。


そして、ボンクラスという、餓狼SP団体への参戦をしていったと。ボンクラスは、事前に対戦カードが決まっていて、第1試合〜メインイベントという流れがある、プロレスの興行スタイルになっている所でしたね。

MAX・相澤
後の柏B−1のコンセプトバトルに通じるものがあって、B−1のTAPさんとイベント形式のバトルを打ち合わせした際に、今風の流れを汲んでアレンジして行ったんだけど、ボンクラス式は楽しかったね。

MAX・朝吹
カードが予め組まれての対戦は、プレイヤーとして勉強になった。

MAX・相澤
うん。ボンクラスでは予め対戦カードが決定しているので、興行までその相手キャラ&プレイヤーと、どうすればスイングしてギャラリー受けする内容になるか、ものすごく考えたよね。そこでは歩きパンチや秒殺という勝利への近道は支持されず、いかに会場が盛り上がるかが重要だったからね。対戦で負けてしまっても会場が盛り上がれば賞賛に値する訳で、馴染みのあるプロレス同様、個人的にも楽しかった。当時は“MAX vs ボンクラス”という団体対抗戦なので、相澤・朝吹・波多野・松尾・川又は、MAXとしてプライドをぶつけ合いで、それこそ“新日本vsUインター”の様な戦いだったけども、自分はボンクラス代表・中井氏のイベントプロデュース力を高く評価していたよ。本当に良い興行で素晴らしかった。

MAX・朝吹
まあな。

MAX・相澤
環境も素晴らしかった。音楽スタジオなので音響は完璧。そしてなんと言っても対戦前に各プレイヤーの入場シーンから始まるので、その時点でプレイヤーはプレイ内容以前に人としてのパフォーマンスも求められた訳だし、試合後のマイクアピールなんか本当のプロレスの試合以上に考えたよ(笑)


あれを月一で開催していたのは、本当に凄かったと思います。

MAX・朝吹
楽しかったよ。ある意味、別組織だったから良かったかも知れない。

MAX・相澤
そうだな。だからこそある一定期間の対抗戦が終了した際、一度条件を白紙に戻し、MAXは外に目を向けて再び始動したんだよな。

MAX・朝吹
ボンクラスみたいな団体があるのだから、他にも居るだろうと思ったよ。再び外に目を向けるというのは、それだよね。日本全国、眠っている狼たちを目覚めさす為に作ったのが、MAXのホームページだったからね。

MAX・相澤
あん時は勉強したよ。まだまだ一般的でなかったネット関連は理解するのに時間が掛かったね。HTML辞書買ったり、毎日徹夜で勉強したけど、夢に向かっての始動だったし毎日が楽しかった。MAXサイト開設当時は相澤・朝吹・波多野・松尾になる訳だけど、MAX・川又は“kaiser”としてMAXを離脱し、ボンクラスに継続参戦する道を選んだよね。あの時の心境は?


色々と自分の感性を試せる場でもあったし、やり残した事が多くあったと思ったから。

MAX・相澤
結果として良かったんだと思うよ。あそこでMAXの冠をはずした事で、その後MAXとは別路線で新規プレイヤー(オミソスープさん)の発掘や交流など、kaiser独自での活動は素晴らしい財産だよ。



【MAX活動期】


その後、2000年4月に行われた池袋GIGO大会に繋がっていきます。

MAX・相澤
あれはもう忘れる事のできない本当に良いタイミングで大会が開催されたし、そこで表向きに始動を開始した「MAX」をアピールする事が出来たね。とにかく対戦内容でインパクトを残したいと必死だったし、結果も良い方向に出てくれて良かった。そして何より関西より遠征してきたAKDにせ氏の存在にも驚いたし、その仲間らしき餓狼SPプレイヤーが数名居た事も嬉しかった。

MAX・朝吹
そう!「にせ軍団」あれはインパクトあったな!


やはりあの大会が、第2次的ブームのきっかけにもなりましたね。

MAX・相澤
本当に大きかった。

MAX・朝吹
ネットで俺の服装の事書いてあるサイトがあって驚いたよ。全盛期(1994)の頃、黄色いパーカー着てダックやってた事を知ってる人がいるとは...(大笑)


当時からインパクトを残そうと(笑)

MAX・相澤
そしたら、次の日に波多野が水色のシャツに茶色のサスペンダーしてきて...(大笑)

MAX・朝吹
で、「相澤も紫の袴着て、上半身脱げ!」て言ったんだけど...(大笑)

MAX・相澤
俺だけ職質されるわっ!!(笑)

MAX・朝吹
あの時は狂っていたな(笑)今だったらコスプレだとか普通にあるし、絶対に出来ない事だね。人と同じ事はしたくないし。

MAX・相澤
コスプレ概念のあまり無い時代だったので面白みがあったけど、今はヤバイだろ(笑)
(と言いつつ、後のマスク・ド・MAX構想に繋がっていく...)


それでは、ここからMAXサイトの時系列に沿って進めて行きます。

MAX・朝吹
まぁ、でもこのMAXが表向きに活動を始めた時のタイミングで戻ってきた狼たちってのは、全盛期にシントクでも対戦しているのが多かったよな。その代表格が「NOK-いちびり」という狼だよ。全盛期のシントクでも“超低空空中投げ”は、強烈なインパクトあったからなぁ。

MAX・相澤
第2次的ブーム時で朝吹が一番喜んでいたのが、NOKさんとの再戦だったからな。

MAX・朝吹
秋葉原で再び対戦できた時、嬉しかったよ!

MAX・相澤
あの超低空でグルグル回されると、全て納得せざるを得ない癒しがあった(笑)

MAX・朝吹
あれを見て俺は蘇ったね。自分もガロスペに戻って、一番良かった事かも知れないな。


その2000年で言うと、10月に大阪遠征して日本橋のフェラーリと京橋のシャトーEXに行きましたね。

MAX・相澤
フェラーリは1プレイ10円という、凄い場所だったね。その上プレイヤーも強烈で、開幕バックステップとライン移動がメインで、足先指先の全神経、何か忘れてた感覚を思い出したよ。あまりの衝撃に波多野が「10円の価値もない...。」と言う迷言が印象的だったね(笑)

MAX・相澤
逆にシャトーEXは、ロケ側担当“じぇっとLee”さんが「せっかく東京から出てくるのですし、いきなり大会だと見えないので、遠征者・地元のお互いが多く対戦できるフリープレイイベントにしましょう!」と言ってくれて、多くの対戦ができた。何の実績もない頃のMAXだったのに、もの凄く気を遣って頂いて本当に有難く嬉しかった。結果として翌年から9年連続で大会を開催して頂けたのも全て、じぇっとLeeさんのお陰だし「大阪にまた行くことができる」って楽しかった。じぇっとLeeさんに本当に感謝してる。


次に2001年1月には長野県のNASAに遠征しました。MAX掲示板に書き込まれた長野プレイヤー「ちゅう君」の存在は大きかった?

MAX・相澤
あの頃は、本当にMAXサイトの掲示板の情報交換が有意義だったね。その長野NASA遠征も最初に、ちゅう君の書き込みがあった時は、ちょっと危険臭のする会ってはイケナイ人だと感じたんだけど(笑)

MAX・朝吹
あははははは(笑)


実際NASAに行ってみて、何と言うか“幸せ空間”の様なものを感じましたね。

MAX・朝吹
あれは、ちょっと居心地の良過ぎる空間だったなぁ。

MAX・相澤
うん。NASAもさっきのシャトーEXのじぇっとLeeさんと同じものを感じたんだけど、その土地の風土というか、冬季オリンピックを開催した長野で、遠征者を受け入れてくれる空間というか、人としての人情をすごく感じたね。遠征者に対してのお気遣いというのは本当に嬉しかったし、逆にこちらも失礼があってはいけないと、プレイ内容充実はもちろんの事、対戦待ちをしていても“空いてる席に座らないのは当然のこと、他の客に邪魔にならない様、広がらずに他の対戦も観戦する”など、ロケ側への挨拶はじめ、こちら側は遊び側であっても、先方は仕事として成り立ているものなので、そこは失礼のない様にこのNASA以降の遠征で強く意識していったね。

MAX・朝吹
その通り。


この頃は、よく長野遠征してましたね。

MAX・相澤
さっきも風土という言い方をしたけど、NASAは“オレ強いだろ!”っていう雰囲気は全くなくて、多くのプレイヤーが“この夢空間を楽しもう!”という感覚だったので、長時間いても時間の気にならない最高の空間だったよね。


NASAは、純粋だったと。

MAX・相澤
ここでMAXとして語弊があってはいけないので付け加えておくと、ガチ系が純粋ではないという事ではなくて、人それぞれの楽しみ方がある中で、NASAではNASAの空気があったという話。

MAX・朝吹
まぁガチンコはガチンコで楽しみ方のひとつであるし、それで良いと思う。語弊があってはいけないのは、MAXはそれを否定してない。そもそも対戦ゲームなので勝ち負け決めるものだし、勝ちを求めて当然なんだよ。で、今の俺たちがこうなってしまったのは、自分たちが思い始めてしまった事だからね。実際、最初は俺ダックじゃなくてキム使いだったんだよ。鳳凰脚にインパクト受けて...。その時は一発入れば連続コンボですぐに相手はピヨるし、お手軽な勝利があったわけよ。でも段々と、なんとなく簡単でつまらなく感じ始めてしまった。そこで模索したら今のスタイルになっちゃっただけだよ。だから今でも自分相手にガチガチで攻めて来ても全然構わないし、ガチスタイルは全く否定してないからそこだけは勘違いして欲しくないね。


実は、ガロスペはいろんな戦い方が出来るものであって、奥の深さも魅力というわけですね。

MAX・相澤
今まで全国各地を遠征してみて、ガチ系のプレイヤーと話す機会も数多くあったんだけど、そこでの話の中で「このゲームは読み合いの要素など皆無で、一瞬のチャンスロスこそ命取り」という話を聞いたんだけど、それも正解だと思ってる。

MAX・朝吹
俺も正論だと思うよ。全くその通りだと思う。一発入れて勝ちへと繋げる緊張感が楽しみという意見は、それも楽しみ方だと思う。ホント人それぞれ考え方の違いだよ。

MAX・相澤
いつも自分は“プロレスと格闘技”で例えるんだけど、格闘技は1発入れば試合は決まってしまう。その殺伐とした緊張感が堪らないものであって、プロレスは勝敗以上に内容や盛り上がりが不可欠なエンターエイメント性に重きを置いている。同じ四角いリングの中でも全く違う表現の仕方があるって事だと思ってる。

MAX・朝吹
うちらはプロレスになっちゃったんだよね。悪い言い方では自分らは少しエスカレートし過ぎた感もあったかも知れないな。勝ち負け度外視で、行き過ぎた面もあったかも知れない。


結局は操っているのは人間なわけで、その人の考え方が表現されていると言う事ですね。相手の動きを封じ込める一方的な対戦もひとつかも知れませんが、それだとCPU戦と変わらないのでは?やはり人vs人と言う“対人戦”なわけだから、対人戦だからこその意義を求めたい気もしてます。対人戦であるからこそ読み合いである“不確定要素を楽しみたい”という事が言えるかも知れません。逆に“それ”が嫌なプレイヤーは、ガチな方向になって行くと思うけど、その不確定要素こそ読み合いの楽しみだとも感じられます。

MAX・相澤
両方正解なんだろうね。スタイル云々は様々だけど、餓狼SPが好きでプログラム上できる事であれば自由なわけだし、好みの問題だよ。

MAX・朝吹
対戦格闘のタイトルは色々あるけれど、俺が思うのは“ガロスペに何を求めているのか?”って事だよ。

MAX・相澤
それだ!“餓狼SPじゃなければダメなんだ!”って俺らの答えが、MAXだったかも知れない。どの格闘モノでも同じ様な論争はあるはずだから。

MAX・朝吹
まぁそうだね。


強いて表現するなら答えは自分自身だと。

MAX・相澤
MAXとして今の表現で言うなら“読み合い重視で、キャラ魅力を前面に出す様なプレイヤー”が、現状の餓狼SP対戦に失望し、引退していく状況は食い止めたかった。ただでさえ少ない狼なのだから、そういうプレイヤー達に夢や希望を持ってもらいたかったし、何よりも自身のスタイルに誇りを持ち続けて欲しかった。その様なプレイヤーに向けたイベントが2001年の「MAX杯」だったんだよ。

MAX・朝吹
ああ。

MAX・相澤
それとMAX杯開催のもうひとつの理由は“MAX流リアルKING of THE FIGHTER”でもあって、今まで自分たちが遠征し対戦してきた全国各地のプレイヤー同士の夢のバトル。例えば東京のプレイヤーと大阪のプレイヤーが対戦したらどうなのだろう?とか、四国と柏が対戦したら?とか、長野と九州とか、自分たちが観てみたい対戦もあったし、それを想像するだけでも楽しかった。

MAX・朝吹
それはMAX主催でなければ開催できない。・・・だから自分たち(MAXメンバー)は出場しなかった。しなかった代わりに、MAXなりの解釈(Aブロック・Bブロック振り分け)のもと進行を決めた。

MAX・相澤
ああ。自分たちが一番出てみたかった内容を反映させたものだったからな。あの参加メンバーだったら自分たちが一番最初に飛びついたよただ、今思えば、もっと解りやすい趣旨説明は必要だったかも知れない。各プレイヤーの持ち味を存分に出せる環境を整えたくて、勝利に対する近道(モチベーション)であるAブロック、魅せる技術すなわち“個性”を重視したBブロックという意味合いだったんだけど、後にMAX杯の映像を見たプレイヤー達に、それが伝われば良いんだけどね...。

MAX・朝吹
賛否両論あったけど、あの振り分けを見て“MAXらしい”と感じてたプレイヤーは確実に居たはずだよ。

MAX・相澤
・・・その反面、どう言えば良いのかなぁ?現在のネットは、某匿名巨大掲示板の様な匿名性を利用した主張があるけど、自分たちMAXは古い人間な為か、最初から馴染めなかった。自分の書き込みには責任があると思っているので、名前を明かさない人の意見は良しと出来なかった。自分のプレイヤー名や本名を明かした上で真剣に議論するのであれば、改善や盛り上がりのためにいくらでも同じテーブルにつく用意はあったし、実際に逆サイド代表としてGARO坊やAKIRAと秋葉原で意見交換した事もあった。対バーニング等お互い誤解している事も多くあったと思うし、あれは凄く良い話し合いになったと思っている。結局、深い話は温度の伝わり難いメールやネット書き込みよりも直接話し合いする事で、もっと前進できた問題もあったのかも知れない。

MAX・朝吹
相澤の場合、仕事含めて何か問題が発生した時は、電話やメールでやり取りしないで、どんなに遠くても必ず足を運んで相手の顔を見て直接話をしていたからな。会うのと会わないとでは、気持ちの伝わり方が全く違うからな。


MAX杯は関西でも開催し、そこでは四国のプレイヤー加統氏が頭角を現したり、MAX杯ならではのプレイヤーも多く確認できたと。

MAX・朝吹
彼はセンスあったね!

MAX・相澤
四国のプレイヤーというのが、ミステリアスな存在でより存在感があったね。


その他の大会については?

MAX・相澤
今思えばMAXサイトに掲載されている大会結果の8割くらいは、MAXが事前に大会開催の交渉をロケ側と行ってきた。きっかけは地方のプレイヤーから「地元のゲーセンにはCPU戦しか無く、別の日にそのゲーセンに行くと別のプレイヤーが餓狼SPのCPU戦をしている。もしこれが対戦台だったら、この人と対戦できるのに...」こんなメールが全国各地から何通もMAX宛に届いた。だからその状況を打破したくMAXは動いた。最初は電話帳でそのゲーセンに電話してみたり、それこそ全く無反応な場所もあったけど、それは相手側の事情などあったのだろうし、そこからが腕の見せ所だと先方に失礼のない様に、菓子折り持って説明に大阪始め、全国に公開している遠征記録以外にも直接足を運んだよ(笑) ある意味、仕事の営業より真剣に考えたね(笑) ホントMAXメンバーでお金出しあって、秋葉原で業務用の基盤を買い込み、毎週どこかしら足を運び「基盤は自前で置いていきますので通信台設置をお願いします!」って交渉して回ったけど(笑) 今思えば笑い話だけど、あの時はメンバーと知恵を絞り合いながら、各地のロケを説得するのが楽しかった。当然、通信対戦台を設置して頂いたロケには、近い遠い関係なく通ったよ。設置してもらう以上、責任は感じていたからね。中には俺の事をSNKの社員と勘違いしているゲーセンの代表も居たよ(笑)

MAX・朝吹
そんな熱量の高いヤツSNKにも居ないだろうな(笑)

MAX・相澤
因みに良く分らなかったのは、MAXサイト宛にNEOGEO本体の修理依頼が来た事があったよ...。SNKのサポートセンターと勘違いしてる感じで...。

MAX・朝吹
それどう処理したの?

MAX・相澤
ヤフオクで本体落札して、本人に送ってあげたよ。俺の住所の最後に(SNK)って書いて...。

MAX・朝吹
ギャハハハ!!

MAX・相澤
結局その時の経験というのは、その後の仕事やプライベートでも大きく役に立った。・・・ただ、いつしかそっちの振り幅が大きくなってしまって、そのくらいから大会を開催してもらえる時点で、役割の大半は終えていて、あとは大会に多くの地元プレイヤーや程よい数の遠征者に参加してもらい、大会全体が盛り上がってくれれば“成功”として、自分自身個人的なプレイヤーとしての成績は二の次になってたなぁ。

MAX・朝吹
うーん...。この辺でプレイヤーとして、ちょっとズレてしまったのかなぁ。

MAX・相澤
・・・このサイトを開始して10年、全国各地で大会が開催され、今では各地のロケーションで自発的に大会も開催される様になって、これってものすごく嬉しい事だよね。俺らはそれを目標にやって来たんだから。元々自分たちが対戦したくて始めたMAXの活動だけど、今言った様な活動をしている内に全体的な活性化を意識するようになり、当初の“個人的な目標から全体的な目標へ”と着地点を変更せざるを得ない流れはあったよね。



では2002年に入ります。え〜と、、、

MAX・相澤
まだ9年分残ってるの?これ長くない...。文章に起こすの俺でしょ(泣)

MAX・朝吹
これじゃ、まとまらないよ(笑) これで連載企画にでもするか!?


分割公開でもいいんじゃないの。

MAX・朝吹
あははは。新しいコーナー始める気満々だな(笑)


対談コーナーを(笑)

MAX・相澤
・・・


では、2002年は九州遠征も行いました。

MAX・相澤
ああ、それも良く覚えてるな。無茶で良い遠征だった(笑) 飛行機で行ったからね。


時間に追われた遠征で、現地滞在期間がものすごく短かったですね。

MAX・相澤
北九州MAHODO大会。あれはアルカディアに掲載されて知った大会だったから、MAX関連関係なく全く未知なる大会で凄く興味があった。しかも翌日、打ち合わせしていた柏B−1大会に参加する為に、翌朝一番の飛行機で帰京したよね。

MAX・朝吹
あ〜、そうだったなぁ(笑)

MAX・相澤
あれ大変だったなぁ。MAHODO大会当日、福岡空港からの電車が事故で動かなくて、別の路線で山奥を通り大回りしてやっと現地入りできたんだよ。

MAX・朝吹
そうしたら立派な大会仕様のセッティングに驚いた。

MAX・相澤
すぐにコンパネとのシンクロもあったし、すでに集まっている地元プレイヤーに混じって乱入してみたら、10戦中1勝出来るかどうかの状況に涙が出たよ(笑)

MAX・朝吹
ははは、、、そうだった(笑)

MAX・相澤
で、どうにもならない状況で、一度頭を冷やそうと駅前唯一の入れそうな場所にミスドがあって、俺、朝吹、kaiserの3人でコーヒー飲みながら「どうする?ここまで来て...(泣)」みたいな話をしながら、気持ちを入れ替えて大会に臨んだよ。そうしたら大会ではそれまで野試合の内容に反し理想に近い試合運びとなり、朝吹と決勝を戦う事になった。

MAX・朝吹
まぁそこは遠征慣れした賜物であって、負けながらも知らずの内に対戦相手に餌を撒いてたんだろうね。その野試合でもただでは負けてなかったんだよな。野試合では喰らってもそこで相手の癖を観ておくのも本番での組み立てに活きるからね。


相手を乗せるというのもテクニックのひとつかも知れませんね。

MAX・相澤
野試合の内容が悲惨なものだっただけに、100点満点の内容ではなかったけど大会では地元の強豪を倒し、決勝で朝吹と戦えたというのが、MAX結成時「自分たちの戦い方で大会決勝で会おう!」みたいなものが俺らの中であったから、格別なものはあったね。

MAX・朝吹
そうだな。(しみじみと)


2003年は、北海道遠征も果たしました。

MAX・相澤
あれは確か、土曜日に波多野と柏B−1の大会に参加して、その足で羽田空港に向かい北海道入りしたのを覚えている。札幌に着くと“−4℃”とか表示されていて、とにかく凍てつく思いをしたね(笑) すすき野は良かったよ(笑)


その後2004年は、遠征で福井・富山といった北陸遠征にも力を入れてましたね。

MAX・相澤
行ったねぇ。波多野と車で何時間かかったかなぁ。大阪行くより遠く感じたよ。でも未知なる北陸の狼にもの凄く興味が湧いたし、それ以降も何度も通ったよ。最初の福井は冬だったので途中の山道で見たこともない雪の高さと、体感した事ない寒さに日本海と演歌を感じたね(笑) あの福井も印象深くて、さっき言った様にその頃の自分はプレイヤーとしての感覚より、裏方としてイベントを成功させたいという意識が強かったので、感覚的に近い人との連携を重視してたかな。福井ではHSEさんというチン使いのプレイヤーが、本当に福井の餓狼SPを盛り上げようと頑張っていて、何件もゲーセン回りして大会会場を確保してくれたり、大会用のビラやポスターも作って盛り上げてくれた方だったので、まさに北陸の救世主だと感じたね。富山ではJUMP軍団なる秘密結社が存在していて、覚えてるだけでも4名は居たと思う。彼らも富山を基点に盛り上げてたね。富山のアズプレスも店長も気を良くされて、大会始まる前から俺に「次回大会の打ち合わせを...」と毎月大会開催してくれたので、遠くて苦労しながら遠征した事が良い思い出だね(笑) ああいう場所で定期開催をしてくれたら、こちらの都合で行かない訳には行かないからね。そういう場を提供してくれたロケ側にも感謝してるし、北陸の狼に情熱を感じることが出来て本当に嬉しかった。

MAXとして重視していた事は、地方のゲーセンで大会を開催してもらう際、一度きりのイベントになってしまうと、当日都合の合わないプレイヤーもいると思うので、最低でも3回は遠征しないと形にならないと思ってた。一回目のイベントに参加できなかったプレイヤーが、二回目のイベントに参加する。更に三回目のイベントで一回目と二回目のプレイヤーが顔を合わせる。その様なセッティングを整えるのも自分らの役割りだと思ってたからね。そうする事によって地方でも現地のコミュニティが出来上がっていけば、独自イベントの開催も可能になってくると思ってるんだよね。

MAX・相澤
あと、内輪の話なんだけど富山で思い出した。本当はここは波多野に話してもらいたかったんだけど、まだ来てないので自分が代わりに伝えると、富山アズプレスでの第1回大会でやった自分vs波多野の対戦は、今でも強烈な印象に残ってるなぁ。こっちは体力1/3残ってて、波多野はあとケズリひとつで負ける状況の中、身内だからこそ甘えは許さんとばかりに烈風拳でケズりにいったら、あのバカそのタイミングで爆雷砲打ちやがって逆転負けを喰らったんだよ。あの波多野が本気で勝ちに来たと驚いたのを覚えている(笑)

波多野の信条は“自分の納得の出来ない対戦内容は勝利に値しない!”と、遠征先の対戦で勝利しても内容に満足しないと自分自身に怒ってるんだよね(笑) いつの遠征だったか遠征終了してロケから退店した時「今日は全敗だったよ。1勝もできなかった。」とか言ってるんだよ。確か3〜4時間は対戦してたはずなんだけど、同じメンバーでありながら理解に苦しんだね(笑) とにかく破岩激で相手にダメージを与える事が嫌だったらしく“チンの見方を変えたさせたい”と言ってた事が“波多野らしい”と思ったね。

MAX・朝吹
まぁ不思議ちゃんだけど、そう伝わってれば良いね。


そして名古屋遠征ですね。

MAX・相澤
これも情報でHOTRODという熱いロケがあると耳にして、富山遠征した帰りに強引に飛騨の山を越えて名古屋入りした事を覚えてる。店員さんの“kinじー”さんが本当に熱い方で、それまで情報の薄かった名古屋地区の餓狼SP対戦を盛り上げようと、そこから定期的に大会を開催して頂けたのはMAXとしても大きなモチベーションに繋がったね。残念ながら区画整理でHOTROD竜宮店は閉店してしまったけど、そのkinじーさんの情熱は次のLOOPみなと店に引き継がれたのも大きかった。これで「名古屋の夢は続く!」と、より一層盛り上がったね。そしてもうひとつ大事な事は、その土地の“主たるプレイヤー”の存在で、えんぱいあ(アンディ)さんの存在も欠かせなかった。えんぱいあさんは、HLB(舞)さんら名古屋の同志たちと名古屋を熱く盛り上げ様と「名古屋餓狼会」を結成し、後にベア使いの たまさんが加入し更に厚みが増したね。たまさんのベアとは大会の上位であたった記憶があるんだけど、こちらの動きを全てベアボンバーで吸われ封じ込められたインパクトは強烈だった。これで名古屋は大丈夫!と完敗ながら満足できた。

ただ「名古屋餓狼会」を立ち上げた、えんぱいあさんは、とても苦労されていたな。MAXの活動に感化されたのか「名古屋地区の対戦を盛り上げたい。勝ち負けだけの世界では、個性あるプレイヤーがついて来れない。名古屋らしさを出したい。」とMAXが名古屋に遠征する度に色々と相談してきたね。その中で、あるプレイヤーが「世界最強を目指したい」と、えんぱいあさんが掲げる名狼会の趣旨と異なる行動を取ると宣言し、えんぱいあさんは、それなら名狼会を抜けて活動して欲しいと説明したら、そのプレイヤーは名狼会の看板を降ろさないままスタイルチェンジしてしまった。えんぱいあさんはその状況に悩み、電話やメールで済むのにわざわざ俺にアポ取って名古屋から東京に出てきて相談してきたよ。「モチベーションが保てない時、MAXさんならどうしますか?」って、彼は本当に悩んでいたね。亡くなったyouji(ジョー)さんへの熱い想いなど聞いてるうちに涙が出てきたよ。もちろん自分の経験など持ってる情報や想いは全て伝えたし、全力でえんぱいあさんを応援したかった。今後、名古屋地区がどの様な環境になっていくのか判らないけど「名古屋餓狼会」を立ち上げた、えんぱいあさん、そして情熱ある店員のkinじーさんの絶対的存在あっての名古屋だと言うのは忘れてはいけないと思う。今2010年だけど、この先5年後、10年後、少なくても現時点ではそれを言って置きたい。

MAX・朝吹
俺は北陸・名古屋関連のイベントは、そん時の仕事の都合とかあって相澤に任せて積極的に参加出来なかったから、傍観者の様な立ち位置で見ていたけんだけど、一度だけLOOPに行った時、えんぱいあ氏と対戦して少し話したけど、彼の高い資質を感じたね。


柏・B−1について聞いておきたいのですが。

MAX・相澤
B−1は、もうMAXの拠点みたいなものだよね。大会も18回も開催してくれたし、TAPさんとオーナーに感謝の限りだよね。本当に心のより所だったと思う。あの“魔の火曜日”は凄かったしね。毎週、火曜日になると各地からプレイヤーが集まってきて、終電ギリギリまで対戦をしているわけで、偶に終電無くなって帰れなくなってたプレイヤーも居たくらいだからね。
(魔の火曜日:柏B−1は、毎週火曜20時になるとプレイヤーが集まり、時には関西からも参加者が居た。)

MAX・朝吹
一言では語り尽くせないほど、熱かったな。


それは、他には存在しない“B−1ならではの戦い”があったという事ですね。

MAX・相澤
やっぱりこれも柏という場所の“主的存在”であった、柏ぬれせんさんや七鍵、GANさんの「柏常連's」の“行けば誰かしら居る!”という存在も大きかったし、大会や毎週火曜日など多くのプレイヤーが盛り上げてくれた事が最高だったね。だから第18回大会は友人の特別ゲストも招いて、TAPさんとオーナー、そして参加してくれた全てのプレイヤーに楽しんでもらいたかったんだよね。あの時のムービー観ると皆良い顔してるよ。





それでは長くなりましたが、そろそろ最後の質問にします。

今までの活動の中で印象に残った「遠征・大会・プレイヤー」を教えて下さい。じゃあ朝吹から。

MAX・朝吹
色々あり過ぎて、どれから言えばいいかな...。じゃあ大会で言うなら、まぁMAX杯は置いておいて、相澤と決勝で戦った九州のMAHODO大会かな。内容としても振り返ってみれば満足に近いものが残せたから。あとは遠征も同様で、全く知らない土地に行って、知らない顔と対戦できたのが新鮮だった。知ってる顔が良くないという事ではなくてね。MAXの原点としても、未知の敵地に乗り込むのが面白かった。そこでの熱い歓迎...、全く勝てない、よそ者を追い払え的な状況に、元々俺たちはそれを求めて遠征してんだから、あれは良かった。いつの頃からか、少し変わってきてしまったかな。昔の秋葉原シントクみたいに“全員敵”の方が楽しかったな。・・・それがMAXとしての立ち回り、対戦スタイル云々など、段々とベビーフェース的な存在を演じなければならなかったのは、流れとしての結果論だったかな。それが嫌だったわけではないけれど。ホームページを立ち上げ、それを観てくれた人がMAXの遠征なんかでも、地元プレイヤーや他の遠征者が多く参加してくれたし反響があったわけで、俺らは元々そういうスタンスだっただけに、当初は「対戦以外のコミュニケーションは必要ありません」とか言ってたけど、でも個人のスタンスを貫き続けるにも限界があった。“皆が盛り上げてくれるのに俺らが無反応ではいけない”とも感じた。そこで少しずつ個人のスタンスより、MAX的スタンスに変えざるを得ない方向転換はあったな。

MAX・相澤
個人としての理想の追求と表向きな対応とのギャップがね。

MAX・朝吹
だから“対戦内で語り合うコミュニケーション”は大事にしたかった。

MAX・相澤
そう考えると、クランシーさんと七鍵は特別な存在だったんじゃないの?

MAX・朝吹
七鍵に関しては経緯があって、まぁ今だから言うけど俺は昔ゲーセンの店員をやってて、その常連の子で当時、七鍵は小学生2年か3年生だったんだよね(笑) もういきなり立ちブレイクもやってしまう“スーパー小学生”だったからな。クランシーさんは秋葉原でしか対戦できない、凄く個性的なプレイヤーで“しゃがみBすかしブレイクスパイラル”のオリジナルは彼だよ。毎週末の対戦が楽しくて、ダック使いとして常にお互い新たな驚きを披露し合い、次回対戦まで宿題を持って帰り、そして次の対戦ではお互い次のレベルで戦い合うという、本当に有意義なものだった。あういうダックは他に居なかったね。

MAX・相澤
・・・七鍵はその後、本当の変態になってしまったからな(笑)

MAX・朝吹


MAX・相澤
クランシーさんと対戦中、奥ラインでレイジングストーム出したら、外から立ちブレイクで吸われたよ。一瞬何が起こったか判らない衝撃を受けたよ(笑)


朝吹は以上かな。

MAX・相澤
せっかくだからkaiserも その3つ無いの?

kaiser
そう。まぁプレイヤーなんかは俺だからの言い方になってしまうけど、長野のちゅう君と四国の加統君と奈良のオミソスープ、関東のフランクの4人だね。みんな独自のセンスの持ち主で、自分は彼らとコミュニケーションを取って活動したけど、彼らは人としてもプレイヤーとしても印象に残るものだった。大会はやっぱりMAX杯だったね。自分はプレイヤーとして参加できたし、パートナーも第1回は加統君と組めたからね。

MAX・朝吹
kaiserはプレイヤーとして出られたからなぁ。

MAX・相澤
俺らが一番出たい大会だったからなぁ。

kaiser
まぁこれは出た側として言っている。だから第3回はちゅう君と組めたし、だからこそMAX杯を挙げた。他の大会で言えば2009年の大阪シャトー3on3EX大会。その前の2008年大会まで凄く盛り上がったんだけど、翌年の2009年大会は“参加者の変化”もあって、今までのシャトーとは違う厳しい流れになってしまった。その中で最後の最後で相澤との対戦で“自分が出来る事の全てをやった”そういう意味で、後悔の無い納得のいく最高の対戦が出来たと言う事だね。

MAX・相澤
あの大阪シャトーEXでの対戦は一生忘れない。内輪の話になるけど、実はMAXとkaiserは、あの対戦が終わるまで5年間、口すら聞かない状態だったからね。仲が良い悪いでは片付けられない、餓狼SPプレイヤーとしての真剣勝負があったから。高校時代からの同級生でもあり、同志でもあるからこその意地の張り合いでもあったね。俺も朝吹も波多野もあの対戦で納得できるものがあったから、kaiserと5年ぶりに握手したんだよ。ちょっと普通では理解し難いかも知れないね(笑) あの後、暫くして人伝にその時の対戦が良かったらしいと聞いた時は、人の印象に残る内容が残せて良かったと嬉しかったよ。

kaiser
そういう話は嬉しいね。

MAX・相澤
MAXにとっても大阪シャトーEXの大会開催は、MAXのモチベーションそのものだったからね。2010年の大会を開催する気になれなかった理由は、kaiserの言った通りだよ。

kaiser
あとは遠征で言うと、長野NASAと鹿児島アーバンスクェア。NASAもNASAだったけど、鹿児島も鹿児島で、こっちが当て身投げで技を取ったりすると、うおぉーとか言ってストンピングしてるんだよ(笑) あういうストレートな反応は嬉しい。


自分は以上なんで、では相澤。

MAX・相澤
うーん、自分の場合は何と言うか、個人的なプレイヤーとしての目線と、MAXとしてプロデュースする目で見たプレイヤーはちょっと違っていて...。

MAX・朝吹
う〜む。なるほどね。

MAX・相澤
前者であれば朝吹と同様で「NOK-いちびり」。あの“超低空空中投げ”のインパクトは、喰らって嬉しいマゾ的要素があるね(笑) 真面目な話、全盛期にあの十平衛を見て“オンリーワンのギース使いになりたい”という意識が強くなった。それで対空で、しゃがみC(対空アッパー)を完全封印し、上段当て身やレイジングストームの探求が加速したね。

MAX・相澤
後者で言うなら、やっぱり各地で求心力があって責任感のある人が、その地域の餓狼SPを盛り上げてくれる存在だったね。長野なら、ちゅう君。大阪だったらR−9さん、福井ならHSEさん、富山ならJUMP軍団。名古屋だったら、えんぱいあさん。柏だったら柏ぬれせんさん。最近なら鹿児島のTOMさん。各地元を凄く意識して責任感のある行動とプレイヤーとしての資質も高いという、やはりそれが主たる存在であり、遠征・大会など行う際も非常に心強いものがあったね。

MAX・相澤
遠征は、すぐに出てくるのは最初の大阪フェラーリ。さっきも出た通り、厳しいアウェイ感が堪らなかった。カジノヒメジの件も忘れられない。明石のゲーセンに辿り着けた時の対戦も熱かった。今みたいにネット関連が普及してなかった頃だったんで、皆僅かなネット情報を大事にしていたね。関西情報を提供してくれたR−9さんには心底感謝している。

MAX・朝吹
あの時もMAXの掲示板でR−9さんとやり取りがあって、姫路から明石に移動したね。確かに大会抜きで遠征だけで言うなら、そっちの方がインパクトあったな。

MAX・相澤
改めて振り返ると北海道にも入ったし、九州にも福岡、鹿児島まで行って対戦できた。長野、北陸、名古屋も楽しかった。実は波多野と沖縄まで対戦台確認しに行ったこともあったし、もうこれはプレイヤー(プロデュース?)冥利に尽きるね。

因みにだけど、今海外のタイのゲーセンと大会の打ち合わせを行っている。実際バンコクのセントラルパークプラザ内にあるロケに足を運んでみると、MVSの対戦台で、別のSNKタイトルの対戦が頻繁に行われている状況だった。餓狼SPイベントの可能性も充分にいけそうだね。ただ、日本と文化が違うので、感覚でものを言えないんだけど、ゲームの勝敗自体が賭けの対象になっていたりして、打ち合わせの段階では“勝者に現金を渡すシステム”を要求されたり、今回で2度目の現地入りなんだけど、今勉強中のタイ語で現地での交渉は日本と違って簡単ではないね。

MAX・朝吹
賞金って、いくら?

MAX・相澤
金額的には3000バーツ。日本円で10000円弱なんだけど、タイは物価が安いから、例えるなら牛丼の並盛りが90円くらいの感覚なんで、現地の人から見たら3000バーツは決して安い金額ではないんだよね...。金でプレイヤーを集めるって言うのが、ある意味海外らしくもあるんだけど、そこにピュアな対戦があるのか?って引っかかってる...。

MAX・朝吹
MAXの実績作りの為だけなら、止めた方がいいんじゃね?

MAX・相澤
普通に野試合の様な形で、タイ人と手合わせしてみたいプレイヤーとしての気持ちと、イベントプロデュース的な面で見てしまうと、やっぱり矛盾が出てしまうんだよね。まぁもう少し考えてみるよ。


相澤の印象に残っている大会は?

MAX・相澤
これも先に話してしまったけど、2000年4月の池袋GIGO大会。実績も対戦内容としてのインパクトも個人的にもMAXとしても、自分の引き出しを全て開けるつもりだった。今は言えないけど、この時の出会いが後にとても大きなものになった。あとは福岡MAHODO大会。朝吹が話したまんまだよ。

MAX・朝吹
あのビリーは、アイツを思い出したよ...。



【これからのMAX】


では最後に、これからのMAXとしての展望を教えて下さい。
NESiCAxLive(ネシカクロスライブ)など今後、ガロスペが更に普及する可能性もありますね。

MAX・相澤
もちろん餓狼SP対戦が、より盛り上がってくれれば喜ばしい事だよ。

MAX・朝吹
他の人から見たらどうでもいい事なんだけど、俺らはやっぱりMVSじゃないとダメなんだよね。相澤も同じ考えだと思うんだけど、ネット対戦とか手を出さなかったのは、そういうのもある。

MAX・相澤
変に頑固でね。ランバ・ラルが言う所の「戦場の風」を感じたいわけであって、ゲリラ屋なのかな(笑)

MAX・朝吹
MAXは所詮“オールドタイプ”だからな(笑)


ネシカは、ゲーセンのMVSと全く同じものであるし、、、

MAX・朝吹
もちろん判ってる。今から相澤が言うから。

MAX・相澤
MAXとして表向きに活動を始めた時、このくらいまで出来たら最高だなっていうものがあるとしたら、それはもう達成してしまった。

MAX・朝吹
はっきり言えば出来すぎた面もあるし、行き過ぎた面もある。

MAX・相澤
周りの状況やロケ側との流れの中で、様々な方向から多くの期待をして頂いた。それがいつしかMAXという存在が、自分たちの意思とは別のものに感じることもあった。

MAX・朝吹
ホント嬉しい悲鳴だったんだ。ただ、自分たちの想像以上に膨れ上がった感はあるよな。

MAX・相澤
でも今こうやって見ると、情報交流も進歩し大阪や名古屋でも各コミュニティが進んで、定期的に大会も開催されている。10年前では考えられなかったことだし、もうMAXとして一つの役目は終えることが出来るんじゃないかな。


それを素直に言えたという...。

MAX・相澤
朝吹とも良く話をするんだけど、これは引退宣言ではないよ。

MAX・朝吹
ああ。引退する気は全くない。1プレイヤーとして今後もガロスペは楽しむよ。


なるほど。

MAX・相澤
プレイヤーとしての本質的な部分を取り戻して、餓えた狼としてね。朝吹とは2on2に参加する夢がまだ実現してないし、状況が整えばまだまだ行くよ。


これからはプレイヤーとして重きを置きたいという解釈で宜しいですね。この第2次的ガロスペブームがあったのは、MAXの存在は欠かせなかったと思います。メーカー主導ではなくプレイヤー主導でブームを起こしたという事実は大きいでしょう。個人であっても“やれば出来る”という希望は伝えられたのではないでしょうか。

MAX・相澤
自分たちが多く対戦を行いたいという目標を胸にMAXのサイトを立ち上げ、自ら足を運んで収集した情報をサイトに掲載し、妄想の中での論議を避ける為に実際に各地方に遠征し、手合わせしたプレイヤーに直接MAXを体感し判断してもらいたかった。今はネットなどの充実で欲しい情報はすぐに入手できるけど、やっぱり自分の目で確かめて感じたものを大事にして欲しい。

MAX・朝吹
一匹狼も大事だよ。流されず大事なのは自分の感性だから。

MAX・相澤
表向きな活動は一段落だけど、これでMAXという扉を全て閉ざしてしまう訳ではなく、先日の鹿児島の様な場所があれば、...ね。

MAX・朝吹
MAXとして成功だったよ。相澤が言った様に各地のコミュニティが出来て、ネットでの情報収集も容易になった現在、各地の盛り上がる下地は出来たんじゃないかな。


MAX・波多野
いや〜、ゴメンゴメン! また遅れちゃった^^;


MAX・相澤
毎回毎回、何時間遅れれば気が済むんだか...

MAX・朝吹
これで“ガム一枚配ってチャラ”だと思ってんだから、たまらんヨ...


まぁ、それでは波多野も最後に一言下さい。

MAX・波多野
なんの?

MAX・朝吹
・・・

MAX・相澤
MAXとして10年間の活動について、いま数時間にわたって振り返っていたんだよ。

MAX・波多野
あぁ、なんつぅ切り口かなぁ。じゃあ、友人と言う存在から相澤・朝吹と共にガロスペに関わってきたけども、2人より3人の方がMAXとして、チームとしての存在感・厚みは増せたんじゃないかなぁ。・・・あとは敵対関係とかじゃなくて、まずはその箱を用意する事に意義があったんじゃないかな?

MAX・朝吹
意外にマトモなコト言ったな。

MAX・相澤
いいんじゃない、それで^^


コンプリートMAX

MAX・波多野
色々あったけど、周りの支えが有り難かった。

MAX・朝吹
ゼロから積み上げていく手作り感が楽しかった。うん、良かった!

MAX・相澤
全国各地のプレイヤーあってのMAXでした。この10年間、最高に楽しかった。
すべての人に感謝です!






【エピローグ】

相澤
さて、この後どうしようか?

朝吹
まずはメシいかね?

波多野
いいよ。


そのあとは?

相澤
例のゲーセンで少し対戦しない?

朝吹
OK!

波多野
間に合って良かった。



この後、埼玉県某所にて、年明けまで熱い対戦が行われた。

(一部動画公開)

@

A

B

C

D

E



・・・狼は眠らない。







MAX


10年間ありがとう。

またいつかどこかで、

2010年12月31日

MAX一同





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